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東京高等裁判所 昭和43年(ネ)900号 判決 1970年1月30日

控訴人 萩原英治

被控訴人 亡松本治助訴訟承継人 松本テイ 外七名

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

事実

控訴人訴訟代理人は、「原判決中控訴人と被控訴人らに関する部分を取消す。被控訴人らは控訴人に対し別紙物件目録<省略>記載の土地につき、静岡地方法務局大仁出張所昭和四一年一一月二九日受付第七六〇六号をもつてなされた抵当権設定登記および同出張所同日受付第七六〇七号をもつてなされた停止条件付所有権移転仮登記の各抹消登記手続をせよ。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。」との判決を求め、被控訴人ら訴訟代理人は、控訴棄却の判決を求めた。

当事者双方の主張ならびに証拠の関係は、次に附加するほかは、原判決事実摘示中控訴人と被控訴人らに関する部分と同一であるから、これを引用する。(但し原判決五枚目表九、一〇行目に「否認する」とあるのを「不知」と訂正する。)

(控訴人の主張の補充)

民法第九四条第二項が、「前項ノ意思表示ノ無効ハ之ヲ以テ善意ノ第三者ニ対抗スルコトヲ得ス」と規定するのに対し、同法第九五条但書が、「但表意者ニ重大ナル過失アリタルトキハ表意者自ラ其無効ヲ主張スルコトヲ得ス」と規定し対第三者関係に言及せざるゆえんのものは、前者は第三者保護の規定であるのに対し、後者は相手方保護の規定たるにとどまることを示すものである。とすれば錯誤の場合には表意者に重大な過失があつても、相手方でない第三者に対してはその無効を主張することを妨げない。仮にそうでないとしても、少くとも相手方において表意者の錯誤に陥つている事実を知悉し、これを利用した事蹟があるときは、たとい表意者に重大な過失があつても同法第九五条但書の規定を適用すべきではなく、表意者は、同条本文の規定にしたがい相手方に対し意思表示の無効を主張し得るものと解すべく、したがつてかかる場合には、相手方と取引をした第三者に対しても、表意者は、右意思表示の無効をもつて対抗し得るものというべきである。しかるに原判決が売主たる控訴人と買主たる原審相被告伊藤富士雄との間において詐欺による錯誤を認定して売買契約の無効であることを確認しながら、一方控訴人の第三者たる被控訴人に対する抵当権設定登記等の抹消登記手続の請求を棄却したのは法律の適用を誤つたものである。

(被控訴人らの主張)

被控訴人らの先代松本治助は昭和四三年一一月六日死亡したので、共同相続人たる被控訴人らにおいてその地位を承継し、本件訴訟を受継した。

(右に対する控訴人の答弁)

右の事実は認める。

(証拠関係)<省略>

理由

別紙物件目録記載の土地(以下本件土地という。)がもと控訴人の所有に属していたこと、本件土地につき、昭和四一年七月二五日控訴人を売主、原審相被告伊藤富士雄を買主とし代金を四、〇〇〇万円とする売買契約が成立し、静岡地方法務局大仁出張所昭和四一年九月三〇日受付第六二二六号をもつて伊藤名義に右売買を原因とする所有権移転登記が経由されたこと、その後本件土地につき、被控訴人ら先代松本治助のために、同出張所昭和四一年一一月二九日受付第七六〇六号をもつて抵当権設定登記および同出張所同日受付第七六〇七号をもつて停止条件付所有権移転仮登記がそれぞれ経由されたこと、および被控訴人らの先代松本治助が昭和四三年一一月六日死亡し、共同相続人たる被控訴人らにおいて、その地位を承継したことはいずれも当事者間に争がない。

しかして各成立に争のない甲第一ないし第三号証、同第七、八号証、同第九号証の二ないし一〇、同号証の二〇ないし三一、同号証の三三ないし五一、乙第一号証の一ないし一三、同第二号証の一ないし八、同第三号証の一、二、同第四号証の一ないし五、同第六号証、同第一二ないし第一五号証、原審証人山田俊勝の証言により各成立を認め得る甲第四、五号証、原審証人萩原惣平の証言により成立を認め得る同第六号証、原審証人萩原惣平、同板井晃、同山田俊勝の各証言、原審における控訴人および被控訴人ら先代亡松本治助の各本人尋問の結果を総合すれば、「原審相被告伊藤富士雄は、昭和三三年中東京地方裁判所において詐欺罪等により懲役刑に処せられ、昭和三八年三月頃仮釈放で出所した後は定職なく、もとより資産もなく、徒食していたものであるが、知人の建築業者板井晃に、『金をつくるによい土地があつたら世話してもらいたい。』ともちかけ、板井は、その利益の分配にあずかる目的でこれに応じ、昭和四一年二月頃不動産仲介業者山田俊勝に対し、『政財界によく顔の通つている伊藤富士雄という人があり、この人が田舎の方に大きい良い土地があつたら欲しいといつているから探してくれ。』と依頼し、山田は右依頼に基づき控訴人の父萩原惣平を当時入院中の病院に訪ね、本件土地を売るように勧誘したところ、惣平はかねてこれを売る意思があつたので、売却に賛成し、買主の物色斡旋を山田に依頼するとともに、所有者たる控訴人の同意を得て本件土地の図面、権利証、控訴人名義の委任状等を山田に交付したこと。同年五月頃山田は板井とともに惣平を訪れ、『買主は伊藤富士雄という人で、政財界に顔のきくえらい人だ。』と話し、惣平は右言を信じて『四、〇〇〇万円なら売つてもよいが、登記と同時に代金を払つてもらわなければ困る。』と述べていたところ、同年六月下旬伊藤は、板井および山田を伴つて惣平を訪ね、代金を支払う意思もその資力、能力もないにもかかわらず、惣平に対し、『わしの名前で買つて旅館をやるか、会社の大きな寮を建てるつもりだ。』と豪語してその旨惣平を信用させて、農地であつた本件土地を宅地に地目変換する手続を伊藤の方ですすめるように同意をとりつけたうえ、昭和四一年二月財政企業研究所を開設して現在に至つている旨およびはなぶさマンシヨンに居住して同所を住所としている旨全く事実に反する虚偽の経歴書を作成し、また、本件土地上に旅館を建てて経営する計画は全然ないのに、そのような計画書をつくり、さらに、司物産株式会社から資金を借りる当てもないのに、あるように装つて同会社の銀行預金の残高証明書をとり、これらの書類を、譲受人を伊藤、譲渡人を控訴人とする農地法第五条の許可申請書とともに惣平に見せて信用させ、かくて、同年七月一日伊豆長岡農業委員会に右許可申請書を提出して同年七月二五日同条に基づく県知事の許可を受け、同日控訴人と伊藤との間に代金を四、〇〇〇万円とする売買契約を成立させたこと。(右売買契約成立の点は当事者間に争がない。)ところで、同年九月二九日売買契約書を作成するに際し、惣平は登記と引換に代金の支払を受けることを主張したのに対し、伊藤は、『他より融資を受ける都合上代金は登記後一〇日以内に支払うからそれまで待つてもらいたい。』といつてゆずらなかつたため一時成行が心配されたが、結局、伊藤、板井、山田の三名が、口をそろえて、『もし代金の支払がなかつたときは、何時でも売主の名義に戻せるように伊藤の印鑑証明書、白紙委任状および本件土地の権利証を売主に預けておくから心配をしないように。』とすすめたので、惣平においても控訴人と相談した結果約定の期間内には代金四、〇〇〇万円の支払を確実に受け得るものと信じ、『売主は本契約の締結と同時に買主に対し所有権移転登記申請手続を完了する。買主名義となつた権利証は売主において預り、売主が右権利証を買主に渡してより一〇日以内に買主は代金四、〇〇〇万円全額を支払う。右期日までに代金の決済ができない場合は、買主は売主名義に戻すための所有権移転登記申請手続をなし、かつ所有権を阻害するあらゆる権利を抹消して売主になんらの損害をも与えてはならない。』旨記載した契約書(甲第四号証)の作成に満足し、同月三〇日本件土地につき伊藤のため所有権移転登記手続を了し、その登記済証は一応控訴人において保管していたこと。伊藤はその後知人の政彦こと島崎正昭に対し、本件土地を担保にして他から一、〇〇〇万円を借用することを依頼し、同年一〇月末頃控訴人から本件土地の登記済証を『融資先に見せる。』といつて預つたうえ、これを島崎に交付し、島崎は伊藤の右依頼に基づき、伊藤の代理人として同年一一月二八日伊藤のため被控訴人ら先代松本治助より一、〇〇〇万円を、利息日歩三銭、損害金日歩四銭の約で借受け、右伊藤の債務を担保するために、本件土地につき、抵当権を設定し、かつ債務不履行を条件とする停止条件付代物弁済契約を結び、同月二九日本件土地につき右約定に基づく抵当権設定登記および停止条件付所有権移転の仮登記を経由したこと。松本治助は伊藤の代理人である島崎に対し数回に分けて合計一、〇〇〇万円を交付したが、島崎はそのうち五〇〇万円を同月三〇日伊藤に交付しただけで、残余は自己の用途に流用し、一方伊藤も右五〇〇万円を持つて姿をくらましたため、控訴人としては本件土地の売買代金は何人よりも全然入手していないこと。」を認めることができ、松本治助が伊藤の代理人島崎の依頼により本件土地を担保にとつて一、〇〇〇万円を伊藤に貸与するに際し、本件土地が前記のごとく伊藤において前所有者の控訴人を欺罔して売買契約を締結させ騙取した土地であることを知つていたと認めるに足る証拠はなく、他に右認定を左右すべき証拠はない。

右認定の事実によれば、本件土地を伊藤に代金四、〇〇〇万円で売却する旨の控訴人の意思表示は、伊藤の代金支払の意思、能力に関する錯誤に基づいてなされたもので、右錯誤は民法第九五条にいわゆる要素の錯誤に該当するものということができるから、控訴人の右意思表示は無効であるといわなければならない。

ところで、被控訴人らは、控訴人は右売買の意思表示をなすにつき重大な過失があつたから、自らその無効を主張し得ない旨主張するので按ずるに、控訴人において数千万円の価値を有する本件土地を売却するにあたり、買主たる伊藤の人物、資産状態、代金支払能力等につき調査をしなかつたことは当事者間に争ないところであるのみならず、代金支払と引換に所有権移転登記手続をするという通常の不動産取引の方法をとらず、伊藤が自己資金なく、他より融資をあおがなければならない状態にあることを知りながら、あえて所有権移転登記をさきにすませ、その後において一旦預つた権利証を交付した日から一〇日以内に代金の支払を受けるという危険な売買条件を承諾し、しかも買主が代金を支払わないときは、所有権を阻害するあらゆる権利を抹消して売主に所有権移転登記をするというような、買主に資力がなければ空文に帰するがごとき約定をもつて満足した点等において、控訴人は高価な不動産の売主として通常要求される注意義務を著しく怠つたものというのほかなく、したがつて重過失の責を免れず、控訴人が農業専業者として世事にうとかつたとしても、それは責任軽減の事由とならず、また板井および山田を使用した伊藤の詐欺手段が巧妙であつたからといつて、右過失が軽減されるものとはいえない。

しかして、民法第九五条但書は、重大な過失のある表意者は、取引の相手方に対してのみならず、第三者に対しても、意思表示の無効を主張し得ない趣旨を規定したものと解すべきであり、相手方でない第三者に対しては重過失の有無にかかわりなく無効を対抗し得るとする控訴人の主張は根拠がない。もつとも表意者に重過失ある場合においても、相手方において表意者が錯誤に陥つている事実を知悉し、これを利用した事蹟があるときは、右但書を適用すべきではなく、さらに第三者が右の事情を知悉しているときはその第三者についても同様に解すべきである。

ところで、本件にあつては、たまたま取引の相手方である伊藤が表意者である控訴人を欺罔手段を用いて故意に錯誤に陥しいれ、これを利用した関係にあるがゆえに、伊藤に対しては無効の主張を許すべきであるけれども、伊藤と取引をした第三者である松本治助は前認定のとおり、この点について善意であるから、同人に対しては、但書どおり無効の主張をすることは許されないものといわなければならない。したがつて原判決のこの点に関する判断には矛盾は認められない。

以上説示のとおりとすれば、控訴人と伊藤との間の本件土地の売買契約が、被控訴人ら先代松本治助との関係においても無効であることを前提として、本件土地所有権に基づき、松本治助の承継人である被控訴人らに対し前記各登記の抹消登記手続を求める控訴人の本訴請求は、理由がなく、これを棄却した原判決は相当であるから、本件控訴はこれを棄却すべきものとし、控訴費用の負担につき民事訴訟法第九五条、第八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 古山宏 川添万夫 秋元隆男)

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